2008年12月17日(水) どうもこのところ、ふだん使っている何気ない言葉に自分の意識の上で突然スポットライトが当たり、あらためてその意味するところへの注意を促すということが起こっている。
どなたのシワザかは分からない(笑)。
きのう書いた「時間を気にする」もそう。
ここ最近では、たとえば「苦にする」という言葉。
苦にする。
反対語は「苦にしない」。
表裏一体。
どちらもある。
どちらもできる。
決めるのは自分である、という「しくみ」がこの何気ない平凡な言語表現の裏側に秘められている。
そう。決めるのは自分。
ところが多くの人が、無自覚、無意識の内に「苦にする」方を選択してしまう。
そして、その原因を他人のせい、運命のせいにしてしまう。
それが当然であるかのごとく。
苦にして苦をますます生みだしていくという循環。
この傾向の裏側には人類史と神の計画にかかわる壮大な「しくみ」が横たわっているのを感じる。
ブッダもイエス・キリストもこの「しくみ」に気づいていた。
そこから脱却する方法を伝えた。
とてもシンプルな言葉で。
彼らが実在したのか否か、本当にそんな言葉を伝えたのかという史実の検証は事の本質ではない。
彼らの言葉として教えとして、それが人類に遺されている事実にこそ意味がある。
そこに「大いなる意志」の意図がある。
「喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。」
とイエスは語ったと伝えられる。(マタイによる福音書)
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